エスニシティ表象としてのミュージアム
-ポスト・スハルト期インドネシアにおける華人アイデンティティの創成―


本稿の目的


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本稿の目的は,インドネシアにおける華人社会団体のひとつ,印華百家姓協會(Paguyuban Sosial Marga Tionghoa Indonesia 以下PSMTIとする)による印華文化公園(Taman Budaya Tionghoa Indonesia)建設計画の考察を通して,エスニシティが可視化されるプロセスと手法を明らかにすることである。印華文化公園は,インドネシアにおける華人の文化・歴史に関する展示を行うことを主な目的とするミュージアムとして,ジャカルタ郊外にある「ミニチュア版『うるわしのインドネシア』公園」(Taman Mini “Indonesia Indah”,以下タマン・ミニとする)に建設が予定され,準備が進められている施設である。
印華文化公園建設計画の検討に際しては,クリフォードによる「『接触領域』としてのミュージアム」が参考になる[クリフォード2002:220]。クリフォードは,『ルーツ-20世紀後期の旅と翻訳-』において,北米の北西沿岸のマイノリティであるインディアンに関する展示を行う4つのミュージアムの取り上げ,ミュージアムはもともと支配集団によって収集された下位集団の文化を目録し展示する場であったが,現在はマイノリティによるアイデンティティ形成の場としても利用され,両集団の「接触領域」として機能していることを指摘しているi。
本稿は,インドネシアにおいてマイノリティ集団に数えられる華人のミュージアム建設計画の計画概要,立案者,立地,現状と課題,を取り上げ,国家と民族の「接触領域」としてのミュージアムと,ミュージアムに表象されるエスニシティの創成と可視化のプロセスを描く。多民族国家インドネシアにおいて,エスニシティの可視化は,ショッピング・モールの装飾に始まり,街頭の像や,選挙活動の際に配られる選挙グッズまでありとあらゆる場において行われている。商業や政治など,目的に応じてエスニシティの可視化は多様な形態をとり,メッセージとして使用される。その中で,本稿が取り上げる印華文化公園は,インドネシアの華人が国家に対して語りかける場であるといえる。
なお,本稿では中国系インドネシア人,すなわち印華もしくは「中華」の福建語読みティオンホアに相当する語として「華人」を使用するii。また,民族またはインドネシア語の「スク」,「スクバンサ」および「エスニス」に相当する語として,「エスニシティ」を使用するiii。各種の中国語の名称に関しては,日本語の漢字を使用する。

背景


インドネシアの華人にとって,1998年5月は,解放と恐怖という明暗双方の意味を持つ。1998年5月に繰り広げられた全国的な暴動をきっかけに,32年間続いたスハルト体制が崩壊し,同体制が行ってきた華人に対する法律上の規制からの解放へと続いた。同時に,自らが直接的な暴力の対象となったことによって,華人として存在することへの恐怖感が再び共有される契機となった。

1997年後半から通貨・経済危機に陥ったスハルト体制を批判する学生運動が各地で広がる中,1998年5月12日,西ジャカルタのトリサクティ(Trisakti)大学で行われた政府批判集会に向けて何者かが発砲し,4人の学生が死亡した。この事件を引き金に,ジャカルタをはじめ,メダン,ソロ,パレンバンなど全国各地で大規模な暴動が起こり,1100人以上の死者を出したiv。スハルト体制批判として始まった暴動は,同体制下で経済的利益を享受してきたとされる華人に対する暴動に転化し,特にジャカルタでは,グロドック(Glodok)と呼ばれる華人の多い商業地区を中心に,放火や華人女性に対する暴行が多数あった。

結果的にスハルトは,5月21日に退陣し,その後ハビビ,アブドゥルラフマン・ワヒド,メガワティ政権を経て現在のユドヨノ政権まで,目まぐるしく政権が変わった。このような体制の変化の中で,華人関係の法的規制の改正は,非常に早いスピードですすみつつある。華人に関する法律の歴史的変遷に関しては,スルヤディナタ[Suryadinata 2003]やリンジー[Lindsey 2005]が経緯を詳しく述べている。特に,1999年10月から2001年7月まで政権を担ったアブドゥルラフマン・ワヒド大統領期に重要な改正が進められ,文化,宗教,言語に関する制約がなくなったv。より最近に行われた画期的な改正としては,2006年8月1日に成立した「2006年第12号法律:新国籍法」が挙げられるvi。

このように,インドネシア国家における一国民として法制面における平等化がすすみ,表現の制約から解放されることで,華人としてのエスニック・アイデンティティを自由に表現することのできる環境が整いつつある。本来であれば,表現の自由化は個人の活動に還元されればよく,集団としてのエスニック・アイデンティティ,すなわちエスニシティを形成する必然性はない。しかし,インドネシアの華人の場合は,多民族国家インドネシアに内包される一集団として「華人」エスニシティを確立する必要性が生じた。

1998年5月の対華人暴動の背景には,集団としての「華人」に対するネガティブなステレオタイプがある。このステレオタイプとは,極端な表現を用いれば,「華人」とは,「インドネシア土着」のエスニック・グループでないにも関わらず,国内経済を牛耳る排他的な集団だという認識で,個としての華人アイデンティティは考慮されていない。他者の目からみた「華人」が一集団として認識されている以上,集団に対する負のイメージを払拭することが,1998年5月の悲劇を繰返さないための一手段だと考えるのは自然であろう。そこで,例えばジャワ人やスンダ人のような「インドネシア土着」のエスニック・グループと同様の手順を踏んで,一エスニック・グループとして「華人」の存在を正当化し,防御することが課題になる。このような状況認識を背景として,華人による宗教,言語,文化行事など公式化・定式化が手がけられ,エスニシティが可視化されつつある

立案者 ―インドネシアの華人団体とPSMTI-

印華文化公園が正確にいつごろ,誰によって発案されたのかは明らかではないが,現時点では,ジャカルタに本部をおく華人団体,PSMTIのプロジェクトとして進められている。インドネシアに華人団体は数多くあり,ジャカルタだけでも百以上の事務所がある。その中で,PSMTIとは,どのような特徴と位置付けを持つ団体なのだろうか。

まず,インドネシアにおける華人団体を概観してみると,大きくわけて5種類ある。具体的には,①福建,永春など出身地域による同郷団体,②林氏,許氏など同氏族による団体,③仏教・孔子教などの宗教団体,④1967年に閉鎖される以前の華語学校同窓会vii,⑤各種社会事業団体である。全国に数多くあるこれらの団体をまとめている代表的な傘組織に,ジャカルタに本部を構える PSMTI と印尼華裔總會 (Perhimpunan Indonesia Tionghoa,以下INTIとする)があるviii。

PSMTIとINTIは元々ひとつの組織であり,1998年5月の暴動の際に,華人を救済する全国的社会組織がなかったため,同年9月28日に,華人の相互扶助を目的として設立された。設立当初の代表は,元陸軍軍人のテディ・ユスフ(Tedy Jusuf)であったが,1999年1年に製薬企業ファロス社会長のエディ・レンボン(Eddy Lembong)を代表として,PSMTIから独立する形でINTIが設立された。PSMTIとINTI関係者の話を総合すると,両組織が分裂した最大の理由は,スハルト政権下で団体を組織することを許されていなかった華人が,意見を集約してリーダーシップをとることに不慣れであったことのようだ。

では,PSMTIの支持者にはどのような特徴があるのだろうか。2006年8月現在のPSMTIの会員数は,約560名である。実際の活動支持者は会員数をかなり上回ることが推測されるが,ここでは会員の特徴をとらえることで,PSMTI支持者の概要を掌握したい。
まず,性別,年齢層に関しては,表1で明らかなように,1940年代,50年代生れの男性が全体の40パーセント以上を占める。このことから,PSMTI会員の多くは,1967年以前に華語教育を受けていた可能性が高い。次に地域分布に関しては,表2で明らかなように,ジャカルタをはじめとするジャワ島居住者が全体の40パーセント以上を占めている。また,職業に関しては,90パーセント以上が商業従事者であるix。

以上のデータから,PSMTI自体は全国にある華人組織の傘組織として拡大を続けている傾向にあるが,印華文化公園建設計画に直接的な影響力を持っているのは,ジャワ島在住で,華語教育を受けた世代の男性を中心とする支持者であるといえる。このような特徴を持つPSMTIが,ミュージアムを建てる舞台として選んだタマン・ミニとはどのような場所なのであろうか。

<表1:PSMTI会員の性別・生年分布(2006年9月現在)>

生年
性別
総計
1920年代
5
1
6
1930年代
35
10
45
1940年代
126
38
164
1950年代
122
43
165
1960年代
78
22
100
1970年代
46
20
66
1980年代
13
4
17
合計
425
138
563
出典: PSMTI提供データより筆者が作成


<表2:PSMTI会員の州別分布(2006年9月現在)>

地 域
州 名
人 数
スマトラ
リアウ
79
北スマトラ
66
リアウ諸島
41
ナングロ・アチェ・ダルサラーム
29
ランプン
5
ジャンビ
3
南スマトラ
2
ベンクル
1
ジャワ
ジャカルタ
168
中部ジャワ
45
バンテン
33
東ジャワ
16
西ジャワ
15
ヌサ・トゥンガラ諸島
西ヌサ・トゥンガラ
33
カリマンタン
西カリマンタン
2
南カリマンタン
1
スラウェシ
南スラウェシ
24
 
合 計
563

出典:PSMTI提供データより筆者が作成


立地 -タマン・ミニとはどんな場所か-

タマン・ミニは,スハルトの文化政策の重要な一部であった。タマン・ミニが,スハルトの文化政策において果たした役割に関しては,後述のように,ペンバートン[Pemberton 1994]や加藤[1993]が詳しい考察を行っている。

ペンバートンによると,スハルト大統領夫妻は1970年代初頭より,9月30日事件iに始まる殺戮と粛清の記憶を打ち消すために,タマン・ミニを始めとする「文化」の政治化と「伝統」の創造に力を入れ始めた。ペンバートンは,タマン・ミニの詳細と1983年にタマン・ミニのホールで行われたスハルトの次女シティ・ヘディアティ(Siti Hediati)の「伝統的」なジャワ式結婚式,そして1987年のスラカルタ王宮の再建を同一の章で論じ,スハルトが「伝統」創造の根拠を,1960年前半から時間的に離れた植民地期のジャワに求めたと分析している。

一方加藤は,タマン・ミニと1976-77年から教育文化省によって行われたインドネシア27州の「目録作成ならびに記録化プロジェクト」が,中央政府による地方文化やエスニシティのパッケージ化に重要であったと論じている。加藤はさらに,両プロジェクトが,多民族国家の多様性をエスニック・グループ単位ではなく州や県などの行政単位に包摂することによる国民統合を行った点と,その結果,特定の行政単位に集中しているわけではない華人が,描かれることのない「不可視」のエスニシティとなった点を指摘している。

両者の議論から,タマン・ミニは,スハルト政権において近い過去の記憶をうちけし,中央によってパッケージ化された全国の各エスニック・グループの「伝統」を国民の新たな記憶として共有するために作られたシステムであることが分かる。以下に,タマン・ミニの詳細を見よう。
タマン・ミニ建設の構想は,スハルト大統領夫人のティエン(Tien Soeharto)が会長を務めていた「私たちの希望」(Harapan Kita)財団のプロジェクトとして1971年8月に発表された。着想の経緯については,いくつかの推測がなされているが,ティエン夫人自身はディズニーランドをモデルにしたと発言している。しかし,同時期にタイとフィリピンで開場された同様のミニチュアパークに着想を得た可能性も大きいii。
着想の経緯にまつわる真相は不明だが,いずれにせよ同プロジェクトは当時の国際空港,ハリム空港から約5キロのポンドック・グデ(Pondok Gede)に,100ヘクタールの敷地を確保して開始した。敷地の確保にあたっては,プロジェクトに反対する学生運動や,居住者の立ち退き問題などが持ち上がったが,スハルトは強行にそれらを退けた[Anderson 1973]。このことは,タマン・ミニがディズニーランドのような単なるレクリエーション施設として構想されていたわけではないことを物語っている。

1975年に発表された設立目的も,スハルト期インドネシアの文化政策におけるタマン・ミニのおける位置付けを,明確に打ち出している。すなわち,タマン・ミニは,インドネシア国家と国民の実情をミニチュアによってヴィジュアル化し,描きだすための施設であるとされている。さらに詳細を見ると,①愛国心の形成と強化,②民族の団結と統一,③祖先より継承された文化の評価と拡充,④各民族間の相互理解促進を目的とした各地域の文化,自然資源などの紹介,⑤観光業の強化,⑥教育的娯楽施設提供による政府の5ヵ年計画の積極的支持,の6項目が挙げられている[Taman Mini “Indonesia Indah” 1978: 46-47]。

次に,施設の概要を説明しよう。敷地の中心部に,8.4ヘクタールの人造湖があり,スマトラからパプアまでのインドネシア群島のミニチュアが浮かんでいる。この湖を取り囲む形で,当時のインドネシア全27州のパビリオンが建っておりiii,さらに外周に各種ミュージアムやモスク,教会,蘭園,鳥類園などの施設がある。各州のパビリオンは,その州の代表的なエスニシティの「伝統的」な家屋を大きくしたもので,中には婚礼衣装,楽器,工芸品などが展示されている。週末には,各パビリオンで踊りや音楽などの「民族」芸能が行われることもある。
これらの代表的な施設のうち,1975年の開園当初からあるのは,東ティモールを除く26州のパビリオンと,宗教施設,インドネシア群島のミニチュア,パンチャシラ・モニュメント,蘭園のみで,主なミュージアムが建設されるのは80年代に入ってからである。池を中心に各州のパビリオンが立地していることからも明らかであるが,州ごとにパッケージングされた文化の展示施設こそが,タマン・ミニの核であるといえる[Taman Mini “Indonesia Indah” 2006b]。

80年代以降,各種のミュージアムが建てられたが,インドネシア・ミュージアムと切手ミュージアム除いた殆どのミュージアムが,科学技術系や資源やエネルギーに関するもので,テーマにスハルト期の「開発重視」政策の影響が色濃く表れている。印華文化公園構想のように,エスニシティの表象としてのミュージアム構想は,スハルト期のタマン・ミニには見られない。

エスニシティのパッケージ化と行政単位化以外に,タマン・ミニがスハルト政権の中で果たした役割は,「伝統」の創造と保存の場としてのタマン・ミニとスハルトの国家的権威の相互補完関係である。スハルトは,次女の結婚式に代表される各種の公式の行事をタマン・ミニで行うことによってタマン・ミニに国家的な権威を与え,タマン・ミニはスハルトが創造した「伝統」文化を後押しすることで,「公的」インドネシア文化におけるスハルトの位置付けを確固たるものにした。

このようなタマン・ミニに表象される,文化面におけるスハルトの権威と,パッケージ化された諸エスニシティと文化に関する概念は,学校教育や,テレビ放映などを通して,多くの人に共有されたと考えられる[加藤 1993,Pemberton 1994]。もちろん,訪問によって直接影響を受けた人数もかなりの数に上る。グラフ1は,開園以来30年間の訪問者の推移である。開園から30年で,累計約1億4000万人が訪れている。特に80年代以降は急速に訪問者数が増え,スハルト政権崩壊前年の1997年には,年間720万人以上となっている。1998年以降も,毎年400万人以上の訪問者があり,タマン・ミニの影響力は衰えていない。



<グラフ1:タマン・ミニ年間訪問者数推移(1975-2005)>
出典:タマン・ミニ広報事務所提供データより筆者が作成


タタマン・ミニの意義と影響力を考慮すると,タマン・ミニに建設される印華文化公園は,立地の選択において,国家より一エスニシティとして認知をうけ,また広くインドネシア国民に受容されることを目的としていることが分かる。クリフォードのいう,マイノリティのミュージアムが「国民的なものやグローバルなものへの参加や,より広い認知を求める」行為であるといえる[クリフォード 2002:146]。PSMTIは,タマン・ミニに華人のミュージアムを作ることによって,インドネシア国家における華人エスニシティとしての位置付けをより確立できると考えているi。
ただし,この場合の国家は,現政権ではなく,スハルト体制に象徴される。PSMTIにとって,スハルト体制が国家の象徴であることは,図1の会報の表紙にテディ・ユスフとともに印華文化公園の関連行事に参加するスハルトの写真が使われることなどからも明らかであろう。
印華文化公園計画は,スハルト体制の崩壊により,華人の文化活動を著しく制限していた中国的な文化表象の法的な制約が無くなったと同時に,同体制が作りあげた,行政単位を基本とするエスニシティの管理体制が崩壊したことを示唆している。一方で,同じくスハルトが作りあげた,建築物,婚礼衣装,踊りなど,決まった要素による各エスニシティ文化のパッケージ化の手法と,タマン・ミニの権威は,印華文化公園計画の支持者の意識内において現在にいたるまで代替されることがなく引き継がれているといえる。印華文化公園は,インドネシアの華人がスハルト期インドネシアのエスニシティ政策の枠組みに遅ればせながら自らをあてはめようとしていることの表れだと考えられる。


印華文化公園計画の経緯

印華文化公園の計画が,立案母体PSMTIの出版物に初めて登場するのは,2001年7月の第4号ニューズレターの記事においてである。同記事は,西ジャカルタにある華人の歴史的建築物であるチャンドラ・ナヤ(Candra Naya)を,タマン・ミニに移築し,ミュージアムとして使用することを提案している。ミュージアムの名称は,この時点では単にティオンホア・ミュージアム(Tionghoa Museum)であった。
チャンドラ・ナヤの詳細については後述するが,同記事は,2001年時点でPSMTIが華人のミュージアム建設計画の主体であったことと,チャンドラ・ナヤが持つ歴史的重要性を示唆する。チャンドラ・ナヤの移築に関しては,最終的に2003年7月にジャカルタ特別州知事スティヨソ(Sutiyoso)が,オーナーであるインドネシア華人企業のモダン・グループ(Grup Modern)が提出した移築に関する嘆願を却下しており,タマン・ミニには複製が建築されることになったi。

チャンドラ・ナヤ移築問題から離れて,PSMTI独自の華人ミュージアム建築計画が「私たちの希望」財団に提出されるのは,2002年11月である。当初の計画では,印尼華人文化歴史博物館(Museum Budaya Tionghoa Indonesia)となっており,現在にいたるまで,印華文化公園計画は,「ミュージアム」計画と呼ばれている。その後,2003年1月6日付けで,「私たちの希望」財団の現代表であるスハルト元大統領が,タマンミ・ミニ内に敷地2ヘクタールをミュージアム建設用に貸借することを許可している。

一方タマン・ミニ側の年次報告書に,同ミュージアム計画が初めて記載されるのは,2004年出版の第29年次報告書においてである。スカルノ期の軍人で,タマン・ミニ設立当時のジャカルタ特別州知事,アリ・サディキン(Ali Sadikin)の言葉として,「私は印華文化公園の実現を歓迎する。インドネシアのティオンホアは,インドネシア国民の一部であるのだから」とあるii。そして,計画当初の図案と,タマン・ミニ内で行われたバロンサイ(中国式獅子舞)の写真が続く。建物とエスニシティの踊りの写真という組み合わせは,同報告書の各州のパビリオンの説明と全く同じ形式である。

タマン・ミニ広報担当者によると,印華文化公園の計画は,元々タマン・ミニ側が構想していたもので,主要な移民の子孫集団である,アラブ系,インド系,中国系インドネシア人に関しては,各州のパビリオンとは別にミュージアムを建てるタマン・ミニ側の計画があり,それらは公的機関ではなく,PSMTIのようなエスニック団体が中心となって行うとの話であるiii。アラブ系,インド系は,今のところ具体化されていないが,中国系に関してはPSMTIとタマン・ミニ側の希望がうまく一致し,順調に進んでいるとのことであった。実際の提案者がタマン・ミニ側であるかは不明だが,タマン・ミニ側,つまり政府側がエスニック団体と共同で,行政単位を超えたエスニシティを可視化するミュージアムの実現に主体的に関わるということは,スハルト期の政府の立場からみると大きな変化である。

印華文化公園の図面に関しては当初,バンドンにあるパラヒャンガン(Parahyangan)大学が作成した図面を採用しているiv。また,全体の計画としては,2003年4月より収蔵物収集を開始し,2004年4月はソフト・オープニング,2005年1月に落成となっていた。しかし,2005年12月に当初の図案から大幅に変更が加えられた有限会社中国厦門市建築設計院作成の図案に切り替えられた上,資金収集に難航し,2006年8月にようやく中国から輸入された門前の獅子が備えられたところである。2006年7月13日の中国語テレビニュース「メトロ新聞」によると,必要経費の18パーセントしか集まっていない。

資金収集が難航している理由は,いくつか考えられる。最も大きな原因は,計画開始から2006年までメディアを介した広報活動を中国語メディア,PSMTI会報,ジャカルタの地方紙に限っており,大型募金に対するアピールが大々的にされてこなかったことだv。その他には,最終的に採用された図案が,あまりに「中国的」でインドネシア華人の文化を表象していないという意見があり,ミュージアム建設そのものには賛成している人も,PSMTIによる印華文化公園計画には賛同していない場合があるvi。

確かに印華文化公園計画には反対意見もあるが,ここで重要なのは,他に代替案が出てきていない点である。このことは,華人性の表象に関して,現時点では言説が確立されていないことを示している。PSMTIの図面に違和感を覚えたとしても,「中国的」でない「華人性」,もしくは「印華性」をどのように表現するかの合意はされていない。インドネシアにおける華人性を表象する表現手法は,模索の段階にあるといえる。

ミュージアム計画の全体像

では,PSMTIの考えるインドネシア華人を表象するミュージアムの概要は,どのような内容なのであろうか。以下に,PSMTIが公刊したプロポーザルに見られるミュージアムの理念と,現在の図面で分かる建物の概要を検討したい。

PSMTIのプロポーザルの構成は,①寄付呼びかけの手紙,②「私たちの希望」財団に対して送られた提案書,③ティエン夫人によるタマン・ミニの設立目的の要約,④背景,⑤目的,⑥趣旨,⑦タマン・ミニの地図,⑧施工予定,⑨予算,⑩ミュージアム設立委員会組織図,⑪同委員会役員氏名,⑫結語,⑬寄付用用紙,となっている。うち,ミュージアムの理念を表しているのは,④背景,⑤目的,⑥趣旨である。

背景では,インドネシアがもともと世界各地からきたエスニシティで構成されており,それぞれが違った宗教的・文化的背景を持っていることが述べられ,「華族」(中国語表記による。インドネシア表記ではTionghoa)の場合は,500年前にインドネシアに移住し,インドネシアの一エスニシティであると続く。ここで強調されているのは,多民族国家インドネシアの多様性とインドネシアにおける一エスニシティとしての華人である。

目的の部分では,華人がどこから,どのように移住し,インドネシア社会でどのような生活をおくり,周囲との交流を図ったかを展示するとしている。続いて主語がない文章で,独立戦争に参加したこと,昔日の苦楽や,理想,思想を示すとある。そして最後に,このミュージアムが中国のミュージアムでも,宗教施設でもないことが断わられている。また,趣旨では,華人を含むインドネシアのエスニシティが,社会の公正と繁栄に向かう理想のために団結するとなっている。

目的,趣旨の部分から分かるのは,スハルト体制下における差別と1998年の暴動を経て,華人が自己の表象において,文章上で直接的に「中国」をイメージさせる表現を極力さけている点である。

一方で,図案に見られる建築案においては,極めて分かりやすい形で中国的な表象が採用されている。最新の印華文化公園の全体像は,図2のとおりである。具体的には,①七層八角の塔,②チャンドラ・ナヤの複製,③紫禁城の複製,④中国から材料を輸入して作られる門,⑤ジャンク船の複製,⑥インドネシア各地のチャイナ・タウンを模したマーケット,が主な建物である。プロポーザル作成当初のパラヒャンガン大学の図案では,紫禁城ではなく邸宅風建築であった点と門と塔のデザインが大幅に違う。また,全体的に建物の位置が変わっているが,その他の点は同じである。

<図2:印華文化公園全体案>


出典:PSMTI 作成2006年カレンダー

このうち,②のチャンドラ・ナヤと⑥のチャイナ・タウンを除くすべてが,いわゆる「中国」を表象する建築物である。特に門と紫禁城に関しては,北京,つまり中国における政治の中心を表象する建築物であるといえる。紫禁城に関しては言うまでもないが,図3,図4で明らかなように,門に関しても,清西稜や清東稜などに代表される清時代の権威を表象する門をモデルにしている。PSMTIによると,インドネシアの国是パンチャシラ(五本の柱)の「5」を表す門を取り入れるよう依頼したということであるがi,現在のデザインからパンチャシラが連想されるとは考えにくい。

<図3:印華文化公園門>


出典:PSMTI 作成2006年カレンダー

<図4:清東稜>


出典:大紀元文化網ウェブサイト URL:http://www.epochtimes.com 
(2006年9月10日アクセス)

インドネシアの華人の主な出身地は,福建省,広東省をはじめとする中国南部であり,図案を作成した事務所も福建省にあるにもかかわらず,中国南部を感じさせるものはない。華人=中国=北京という,極端に単純化された構図がここにみられる。しかも,紫禁城の複製は,「主題展覧館」すなわち,ミュージアムの中心となる予定である。

紫禁城の複製がミュージアムの中心として位置付けられることには,三通りの解釈が可能である。第一に,北京の持つ権威を,インドネシアの華人史の中に位置付ける試みであるという政治的な解釈である。第二に,紫禁城は華人を含めたインドネシア人に良く知られた,分かりやすい中国性の表象を選んだという解釈だi。第三に,中国国内においても,福建省,広東省におけるエスニシティの表象が必ずしも中国人エスニシティとして捉えられるわけではないという解釈である。すなわち,中国内において中国人アイデンティティを表象しようとすると,「中華」という漢民族に代表される文化伝統を採用せざるを得ないという論理が,インドネシア華人を集合体で表現する場合にも当てはまるという考え方である。

いずれにせよ,インドネシアの華人自身が最低でも500年以上あると主張するインドネシアにおける華人の歴史,文化を可視化した建築物は中心にはない。唯一インドネシアにおける華人の歴史を伝える建造物は,チャンドラ・ナヤである。次にチャンドラ・ナヤの詳細を見たい。

チャンドラ・ナヤ

チャンドラ・ナヤは,西ジャカルタ,ガジャ・マダ通りに位置し,オランダ期の華人の建築様式を伝える数少ない建造物である。19世紀後半に華人の地主,コー・ティエン・セック(Khouw Tian Sek)の3人の息子たちが建てた三邸宅の一軒で,後にオランダ植民地における華人地区の最後の華人行政官,コー・キム・アン(Khouw Kim An:1879-1945)の住居となる。外観は,オランダ植民地期バタビアにおける建築様式に中国南部の様式を取り入れた折衷様式である。

オランダ植民地の華人行政官制度の発展の経緯と役割に関しては,ロハンダ[Lohanda 1994] が歴史学的な検証を行っている。ロハンダによると,コー・キム・アンは,オランダ語教育を受けた華人で,1910年から1918年および1927年から1942年の二回にわたり,華人行政官の最高位であるMajoorに任命された当時の華人のリーダーである。コー・キム・アンが1945年に日本軍の強制収容所にて死亡した後,チャンドラ・ナヤは1946年に設立された華人社会団体Sin Ming Hui(新明會)によって使用され,1950年代には現在の名称の根拠となる小学校から高校までを併設したチャンドラ・ナヤ学校の校舎となる。

1世紀にわたってインドネシアにおける華人の社会的・政治的活動の場として関連付けられてきたチャンドラ・ナヤは,1992年にインドネシア華人オーナーの一企業モダン・グループに売却された後,完全解体もしくはタマン・ミニへの移築の対象となる。この歴史的建造物の解体と移築をめぐっては,2000年から2003年にかけて,華人コミュニティを超え,多くの人の注目を集めThe Jakarta PostやKompasなどの主要新聞に多数の記事が掲載された。ただし,両紙における問題へのアプローチには,多少違いが見られる。

2003年のKompasの一連の記事では,PSMTIがチャンドラ・ナヤのタマン・ミニへの移築をジャカルタ州知事スティヨソに願い出たことに対し,ジャカルタ特別州公共福祉委員会のアウディ・タンブナン(Audi Tambunan)を始めとする同委員会メンバーが反対意見を提出した事実など,PSMTIと政府との関係性の中で問題が捉えられている。

他方,The Jakarta Postでは,「なぜチャンドラ・ナヤが国家遺産なのか?」[April 23, 2003] というように,華人史をこえたチャンドラ・ナヤの文化的重要性を喚起する記事が続いた。例えば4月29日の記事では,チャンドラ・ナヤが1957年にインドネシア・バドミントン協会が始めて大会を行った場所であることや,インドネシア大学考古学科のイルマ・ハツミ(Irma Hatsumi)の発言を引用し,「1965年クーデター後,反共産党を掲げた学生運動の拠点となり,アリ・サディキンがジャカルタ州知事在任時(1966-1977)には,都市発展のための資金調達の拠点として機能していた」ことなど,華人以外の読者にも訴えかけるように多数の識者の意見が引用されている。

The Jakarta Postの記事においては,建築様式に関しても,史跡専門家のデヴィッド・クワ(David Kwa)による「中国建築の中に,中国的ではないタッチがみられる。雨戸や窓格子,大理石の床,ガラスの天窓,鉄細工製品の装飾,などは明らかに東インド様式の建築である」[May 29, 2003]という説明を引用し,チャンドラ・ナヤはバタビア社会がメルティング・ポットであったことを反映した建築物だと述べている。 

<図5:開発途中のビル建築現場に残るチャンドラ・ナヤの一部>


出典:2006年3月14日筆者撮影

このような,チャンドラ・ナヤ移築をめぐる多角的な議論を踏まえた上で,クスノはチャンドラ・ナヤが1998年5月の暴動以降の華人社会において持つ意義をいくつか挙げている[Kusno 2001]。クスノによると,チャンドラ・ナヤは,放火の被害の最も大きかったグロドック地区から100メートル程度しか離れておらず,同地区における華人のプレゼンスを保証する「中国的」な外見をもつ建築物である。加えて, 1998年5月の暴動によって再確認されたスハルト期に奪われた華人の政治性がオランダ植民地期には存在していたことを想起させる。つまり,チャンドラ・ナヤは,インドネシア社会における華人の過去と未来をつなぐシンボリックな意義を持っているとしている。

クスノの議論から,PSMTIがチャンドラ・ナヤを当初タマン・ミニに移築しようと考え,移築が不成功に終わった後も複製を建設することにした背景には,建築様式を超えた,象徴としてのチャンドラ・ナヤの重要性があったことが分かる。

ミュージアムの展示と活動計画


最後に,プロポーザルに見られる印華文化公園の展示内容と活動計画について簡単に触れておく。印華文化公園は,建築物のデザインそのものにおいてもエスニシティの表象を行っているが,ミュージアムが本来目的としている展示と活動内容においても文化の可視化,価値化,保存の機能を担っている。前述のとおり,プロポーザル作成時点の図案と,最新の図案は違うが,ミュージアムの基本的な機能についての方針には変更がないので,プロポーザルを参考に述べたい。

印華文化公園では,ミュージアム展示の中心となる展覧主館,土産物屋やレストランが入るチャイナタウンを模した店舗街,獅子舞や踊りなどを公開する演劇場の3箇所が施設面での核となる予定である。うち展覧主館には,①インドネシアにおける華人の歴史,②インドネシア各地の華人美術・文化遺産の常設展,③特設展  ④苦難の時代の華人英雄,政府高官,スポーツ選手などに関する資料,⑤図書館,が含まれる予定である。

展示の詳細については,今後の経過を待たねばならないが,集団的アイデンティティとしての華人の文化と歴史,そして未来が,インドネシアの社会と歴史においてどのような位置付けをされるのかが課題になるだろう。

結論


本稿では,印華文化公園計画の詳細を検討した。同計画は,スハルト政権下で活動を制約されていたインドネシアの華人が,タマン・ミニに代表される同政権のエスニシティ政策の枠組みにあてはめて,自らのエスニシティを表象しようとするパラドックスを内包している。

現時点では,そこに表象されるべきインドネシア華人の文化に関しては,華人コミュニティ内に統一した見解がある訳ではない。32年にわたって表現の制約を受けた後にエスニシティ創生の必要性に直面し,中国本国やオランダ植民地期などスハルト期以前の歴史的文脈に立ち戻り,アイデンティティの根拠を探している段階であるといえる。印華文化公園計画を通して,エスニシティの創成は,外的な必要性に基づいて行われ,歴史的根拠を求めた上で形作られるストーリーであることが分かる。

今後,印華文化公園がどのような方向に進むのか,またミュージアム設立以外の面において,華人のエスニック・アイデンティティの再形成がどのように行われるのかを引き続き検討していきたい。また,本論文で多用した,「中国性」「華人性」「印華性」のそれぞれの線引きが可能なのか,可能であるならばその根拠はどこに求められるのかを,他の事例と比較することで,明らかにしていきたい。


 

 

Yumi Kitamura is an assistant professor at the Center for Southeast Asian Studies, Kyoto University, and a Ph.D. candidate at Hitotsubashi University. This essay first appeared in Japanese in Gensha Vol.1 (2007) and was revised for KRSEA. It was translated by the author with assistance from Nicolle Comofay.

Kyoto Review of Southeast Asia Issue 8 (March 2007)
©Center for Southeast Asian Studies, Kyoto University




Notes:

1 クリフォードは,「接触領域」の概念をメアリー・ルイズ・プラット(Mary Louise Pratt)の『帝国の眼ざし-旅行記とトランスカルチュレーション』[Pratt 1992: 6-7]から借用しているとしている[クリフォード 2002:220]。

2 インドネシアで華人を表す語,現時点ではチナ(Cina)が最も一般に理解されやすいが,チナは華人の間では蔑称とみなされており,公式文書などによる名称をティオンホアに変更するよう訴えられ続けている。

3 これらの用語に関しては,加藤[1990]を参照。

 

 

4 被害者総数には,諸説がある。当時の新聞報道から例を挙げると,1998年6月5日付けのRepublika紙では,ジャカルタ社会協会(Institut Sosial Jakarta)が1000人以上,国家人権委員会(Komisi Nasional Hak Asai Manusia)が1188人と発表したとしている。同年6月10日付けのSuara Karya 紙は1217人としている。ここでは,加納[2001:33]を参照した。

5 1999年,当時のハビビ大統領が全政府機関での華人差別の撤廃を指示し,2000年にワヒド大統領が,Instruksi Presiden Republik Indonesia Nomor 14: Tahun 1967 Tentang Agama, Kepercayaan dan Adat Istiadat Cina (中国宗教,信仰,慣習に関する1967年大統領令14号)の廃止を宣言する。同法案は,公的な場における中国的習慣の表象や,伝統行事・宗教行事の開催を禁じていた。さらに2002年大統領決定第19号によってメガワティ大統領は,華人の祭日「旧正月」を2003年から国民の祭日とすることを決定した。

6 同法により,華人であればインドネシア国籍であっても所持を義務付けられていた国籍証明書(Surat Bukti Kewarganegaraan Republik Indonesia : SBKRI)が完全に廃止されるなど,華人と「インドネシア土着」のエスニック・グループが国籍法上平等になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7 チナ問題解決に関する基本的政策,内閣幹部会通達No.37/U/IN/6/1967(Instruksi Presidium Kabinet No.37/U/IN/6/1967. Tentang Kebijaksanaan Pokok Penyelesaian Masalah Cina)を参照。

8タン[ Tan 2004: 33-39]は,PSMTIを互助団体,INTIをロビー団体というように別種の団体として扱っているが,本稿では,両団体を全国にある華人組織の傘団体という機能において同種の団体であるとみなしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9 PSMTI提供データ参考。

101965年9月31日から10月1日にかけて,大統領親衛隊長ウントゥン中佐が指揮し,ヤニ陸軍参謀長ら6将軍を拉致,殺害した事件。当時,陸軍戦略予備軍司令官であったスハルトによって鎮圧された。スハルトは,同事件に引き続き共産党の一掃作戦にも深く関わり,1966年3月には「3月11日命令書」によってスカルノから実質的な権力を取り上げ,1967年3月に大統領代行に,1968年3月に共和国第2代大統領の就任した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

11アンダーソン[ Anderson1973]は1970 年3月にバンコクを訪れた夫人が同様のミニチュアパークであるティムランド(Timland)に触発された可能性を指摘し,大統領夫人同士のネットワークが背後にある可能性を示唆している。ペンバートン[Pemberton 1994]によると,1975年4月20日の「カルティニの日」に行われたタマン・ミニ開園式に,フィリピン大統領夫人のイメルダ・マルコスが出席したことに触れている。フィリピンでも1970年6月にミニチュアパーク,ナヨン・ピリピーノ(Nayong  Pilipino)が開園されていたことを考えると,東南アジア諸国の大統領夫人ネットワークの中で,ミニチュアパーク建設によって文化政策を推進する手法が共有されていた可能性がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

122002年に東ティモール民主共和国として独立した,東ティモール州のパビリオンは,看板のみが「ミュージアム」と架け替えられた上で,現在も残っている。ただし,メインテナンスはされていないようで,2006年9月に訪れた際には,荒れ始めていた。1999年5月に制定された地方自治法(1999年法律第22号),中央・地方財政均衡法(1999年法律第25号)の地方自治2法(2001年施行)以降に新しい州として独立した,バンテン州,ゴロンタロ州,バンカ・ビリトン州,北マルク州のパビリオンは,2006年8月時点ではまだ建設されていない。

 


<図1: 2005年5月のPSMTI会報表紙 (左)テディ・ユスフ,(中央)スハルト>

13 2006年3月13日および7月28日に行った,テディ・ユスフからの聞き取り,および3月16日に行った,INTI広報担当者からの聞き取りを参考にしている。

The Jakarta PostおよびKompasの一連の記事を参照。

14アリ・サディキンは,1966年から1977年までジャカルタ特別州知事の職にあり,タマン・ミニだけでなくジャカルタの近代都市化に貢献した。

15 2006年3月17日,タマン・ミニ広報担当者からの聞き取りによる。.

16 2006年7月18日,タルマヌガラ大学建築学科教授でチャンドラ・ナヤ保存運動に深く関わったZ氏からの聞き取りによる。

17 年以降は, 全国紙のKompas (2006年7月26日付け)やThe The Jakarta Post (2007年4月19日付け)などに印華文化公園に関する記事が掲載され,資金不足についても言及されている。

18 筆者がインタビューしたジャカルタ在住の華人知識人数名による指摘である。

19 2003年8月,タマン・ミニにある印華文化公園事務所での聞き取りによる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20 例えば,ジャカルタ郊外の建売住宅地区,コタ・ウィサタ(Kota Wisata)内のチャイナタウン風土産物店街,カンポン・チナの入り口付近の建物に,「紫禁城」と漢字で看板がかかっていることからも,インドネシアにおいては,紫禁城が中国的な建築の代表として理解されていると考えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献


[日本語文献]
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加藤剛.1990.「「エスニシティ」の概念の展開」『東南アジアの社会』矢野暢(編),215-245ページ所収.東京:弘文堂.
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加納啓良.2001.『インドネシア繚乱』文春新書 163.東京:文藝春秋.
クリフォード,ジェイムズ.2002『ルーツ-20世紀後期の旅と翻訳』毛利嘉孝他(訳).東京:月曜社.(Clifford, James. Travel and Transition in the Late Twentieth Century. 1997)
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The Jakarta Post URL:http://www.theThe Jakarta Post.com
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Candra Naya: A Heritage Alredy Forgotten? April 23, 2003.
Candra Naya Relocation Rejected. April 25, 2003.
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Candra Naya Relocation is Legal Violation. May 24, 2003.
Candra Naya, Test of Commitment to Preservation. May 29, 2003.
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Dinas Museum: Candra Naya Tak Boleh Dibongkar. Mei 12, 2003.
Soal Candra Naya, Pemprov DKI Berpegang pada Peraturan. Mei 22, 2003.
DPRD: Gedung Candra Naya Jangan Dibongkar. Mei 29, 2003.
Marco Kusumawijaya. Pemeliharaan Candra Naya Tak Perlu Ditawartawarkan. Juni 19, 2003.
Proyek Taman Mini Budaya Tionghoa Kesulitan Dana. Juli 26, 2006.


<本稿は、『言語社会』1号(2007年3月)掲載論文を加筆修正したものである>

 
Wu Xiao An is associate professor in the Department of History, Peking University. He is the author of Chinese Business in the Making of a Malay State, 1882-1941, which was published by RoutledgeCurzon in 2003. He can be reached at wu2@pku.edu.cn.
   
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