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  リード・L・ワドレー、マイケル・アイレンベルグ

[リード・L・ワドレーは、ミズーリ大学コロンビア校(アメリカ合衆国)人類学部で、マイケル・アイレンベルグは、オーフス大学  (デンマーク、モエスゴール) 人類学・民族誌学部でそれぞれ教鞭をとっている。]

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インドネシア、カリマンタン西部の国境地域における自警団とギャング

 

風見鶏のように自らの利に応じて国境を行き来するような人々は、どちらの国家からも貴重な市民としては、まずみなされない。

国境地域というものは長く暴力行為の行なわれる場であった。こういった行為は、どちら側の国家も辺縁地域を統治する能力に欠けたり、あるいは無関心であったりすることによって引き起こされた。また、「手に負えない」国境域の人々に対し、折に触れて行なわれる干渉もその原因の一つである(Paredes 1958: Wadley 2004)。無法状態の国境地域、あるいは国家の定める法律の効力が曖昧な空間は、密輸や税金逃れなど、両側の国家から違法と見なされる諸活動の温床となる(Tagliacozzo 2001)。また、こういった違法行為に立脚し、保護と暴力によって維持される地方的なリーダーシップは、国境地域において発展しやすい(McCoy 1999)。こういった状況下において国境地域の人々は、国家の干渉に対しかなり高い度合いでの自治を享受しいているため、もともとはっきりしない彼らと国家との関係はさらに曖昧なものになる(Martinez 1994a)。本ペーパにおいて、筆者は、イバン族の居住する西ボルネオの国境地帯(図1)の無法状態と自治について、自警団活動、ギャング活動 に特に焦点を定め検討し、国境地帯の曖昧さと分離性がこの二つの活動にいかに拍車をかけているかを考察したい。 自警団活動、ギャング活動がインドネシア全土に見られる一般的な現象であることは広く知られているが、我々が示しているのは、国境という地理的位置づけによって、これらの活動は独自の形を持つものになっている、ということである。
[図1]

ボルネオにおける英蘭の植民地主義はカリマンタンのイバン族をサラワクにおける主居住域から分離した。このことは、19世紀半ばに始まる国境域にまたがった首狩りの制圧と、植民地化における市民権の明確化に対する努力に端を発している。イバン族の居住する国境域は、植民地間に起こる問題の争点にしばしばなった。そしてイバン族は、英蘭それぞれの植民地支配がもたらす諸条件の違いをフルに活用した。例えば、国境地域を税金逃れの隠れ蓑や植民地権力への抵抗の場とした(Wadley 2004)。20世紀半ばにおけるインドネシアの独立やマレー連邦の成立は、ただ分化を深めただけであった。とりわけ、1960年代初頭のコンフロンテーション期に国境域で行なわれた厳重な軍事化、またそれに続いて1970年代に向けて起こった共産主義者の暴動の制圧期にはそういった傾向が強くみられた。しかし、このことによって国境域における人口や分割された州が国境の向かい側と切り離されてしまったわけではない。その反対に、国境を越えての人の行き来は、何十年来に

引き続いて大いに行なわれていた。1980-90年代にかけての国境域における道路網の建設によって、合法であれ違法であれ、国境を行き来する人とものの流れは増加した(Wadley 1998)。それに加え、アジア経済危機とスハルト政権の崩壊に引き続いた地域的な自治の開花は、この流れに拍車を掛けた(Fariastuti 2002; Riwano 2002; Siburian 2002)。 しかしながら、インドネシアの中心地からの遠さに加えて、この時期に生まれたインドネシア、マレーシア間の経済格差によって、カリマンタンのイバン族は経済的にマレーシアを志向するようになっていた。この傾向は、彼らが文化的、歴史的にサラワクにルーツを持っていることによってもいっそう強まっていた。1997年におけるアジア経済危機と政治の劇的な変化は、インドネシアにおいては国境域の非軍事化も含め急速に展開し、イバン族のサラワク志向の傾向をさらに深める結果をもたらした。国境域のイバン族はより豊かで政治的に安定した隣人に接しているため、その利害関係の一部は国境を越える性格を持っている。彼らが関係性を広げている地域一体は、一時的な雇用の場、あるいはいずれは移民することになる頻繁に訪れる場なのである。インドネシアの中央政府の影響力の低下の副産物として、現在進行中の「違法」伐木搬出ブームは、渾然とした地域経済の取ろうとしている戦略を象徴している。が、このブームにおいて重要な要素とは、製材所を地域に持ち、マレーシア人のイバン族の労働者を抱え伐木搬出作業を行なっているマレーシアの華人系材木企業家 である(Eilenberg 2005, Wadley and Eilenberg 2005)。

「違法」の語は、その語が何を指しているかが一つの問題である。特に国境地域在住者の視点から見た場合、この一語のみでは複雑な様相をあまりにも簡単に説明付けてしまっていることにもなりかねない。「違法」の語  には、間違った行いやそういったことが行なわれる可能性が示唆されており、それらは国家レベルの関心事に視点を置けば、実に的を得た表現である。が、「国境地域の居住者が、国境をはさんだ交易活動に経済的権利を誇らしげに賭けている有様を示して」いるわけでは必ずしもない(Flynn 1997:324)。遠い存在である政治家によって違法と定義されている行動に自らが関わっていることには気づきながら、国境地域の居住者らは、道徳的に間違ったことを行なっているとは考えてはおらず、法律の方が不正で理屈に合わないと見

なしている。つまり、国家の法律によって違法と定められていることは、多くの場合国家のエージェントにとって不正のないものなのであり(もちろん彼ら自身も法からの抜け道を見つけようとすることはあるだろうが)、国境地域居住者は国家の定めた決まりごとに対して、もっと臨機応変に日々あたっているともいえる。外部から、また自分たちの利害に反して押し付けられた法律のお蔭を被っているとは感じていない。 このことは、1998年からの国境地域における伐木搬出作業にもっとも顕著に現れている。この作業は国家からは違法と、地域コミュニティーからは合法と見なされており、今や森林は彼らの伝統的なコントロール下に戻っている。(この問題に対する我々の認識は、以下に記される彼らの活動を大目に見ているものではなく、またこれらの活動について記すことで、全てのイバン族がそういった活動に等しく参加していると示唆しているものではない。)

ケース1:自警団

2000年12月初めに、カプアス・フルの県都であるプトゥス・シバウの法廷は、散弾銃とブッシュナイフで武装し、血族の死に対する報復を誓った300-400人からなるグループによる殺人の現場となった。 ウスナタという名のマレー人が被害者であったが、この人物は2000年1月にサンダクというイバン族の両替商を殺害したかどで裁判にかけられていた。法廷におけるこの殺人は、裁判所の建物の中で行なわれたインドネシア初の自警団による殺人として、国家レベルで新聞種となった。アブドゥラフマン・ワヒド大統領は被害者の家族に面会し、州の役人は加害者に裁きが下るよう誓った(Kompas 2000b; Pontianak Post 2000a, 2000b)。しかし、月日が過ぎ何年たっても、この事件は地元、国家当局の「レーダースクリーン外」にあり、何百人もの参加者のうち殺人のかどで告発された者は誰もなく、また今後も現れそうにない。

表面的には、このことはアムックマッサの一例に過ぎないようにも見える。アムックマッサとは、司法制度が働いていない、という背景の下に、多くの場合些細な犯罪を犯した者に対して、一見突発的に行なわれる殺人である(Colombjin 2002)。が、報

道には現れていない何か、言い換えれば潜在的な構造と動機は、国境地域におけるアイデンティティー、国家権力の衰退、公務員の汚職の相互作用を白日の下にさらしている。 イバン族の両替商であるサンダクは、婚姻によってウスナタと親戚関係にあった。ウスナタはサンダクの従姉妹と結婚していた。国境地域での取引で集めた7千万ルピアを詰めた袋を抱えたサンダクが、ウスナタと高速モーターボートに乗っていたことはごく自然なことであった。銀行に向かっての長い旅の途上でウスナタと運転手のパダン人のエディがサンダクを殺害し、船外に投げ捨てたのは明らかである。何ヶ月かするとサンダクの遺体は発見され、警察はウスナタに疑いを持ち始めた。(エディは既に州外に逃げ出していた。)というのも、ウスナタはサンダクと最後まで行動をともにしていた人物の一人であるだけではなく、サンダクの失踪後、高価な消費財を買うようになっていたからである。サンダクのイバン族の血族は、ウスナタに、イバン族の慣習法(アダット)に従ってパティニャワあるいは血の貨幣を支払うように要求した。彼が拒んだため、ことは県の法廷に持ち込まれることになった。裁判の初日が終了した後、関係するイバン族は、主席裁判官に賄賂を使ったウスナタは無罪になるであろうと判断した。そこで彼らは襲撃を計画し、サンダクにつながりのあるイバン族を国境の両側から集結した。報復の他に、彼らが自分たちの行動の根拠としたのは、政府から正義は期待できないのだ、という点であった。また彼らは、ウスナタがイバン族のアダットに従おうとしないことにも激怒した。もしパティニャワを払っていさえすれば、ウスナタはまだ生きていたであろうに。犯罪に対する司法制度の無力さと腐敗に対するごく一般的な捉え方から生じたとはいえ、自警団によるこの殺人行為は、ジャワなどにおける一般的なアムックマッサとは大いに異なっている。アムックマッサは、路上、市場などで窃盗などの些細な罪を犯した者に誰かが気づいた時に殆んど突然に発生する。アムックマッサは迅速に行なわれ、直ちに検証と告発が続く。これに対し、ウスナタの殺害は何日にもわたって計画、組織され、社会的、地理的に広範囲のネットワークから結集された一団が関わりっている。そして法の裁きの場において行なわれていることは、インドネシアの自警団殺人には見られない例である。直接的ではあるが非暴力的に警察との対決がなされている。

ケース2:ギャング団

2005年1月、26人の政府の役人 と一名のテレビジャーナリストからなるチームが、ベトゥン・カリフン国立公園周辺における違法伐木搬出について調査を行なった(Antara 2005; Kompas 2005a)。これに先立つこ

と6週間、警察は3人の華人系マレーシア人を、国境をまたがった伐木搬出のかどで逮捕し、機材と材木を没収した(Kompas 2004a)。「首謀者」であるアペンという名の、非常に悪名高い華人系マレーシア人の材木商のボスあるいはトゥケイ(Equator Online 2004a, 2004b)は逃亡していた。新しいチームはアペンを逮捕することを目標に掲げたが、結果的には彼らの乗ったキジャンは悪路を進むことができなかった。そこで押収品の一部であったトヨタのランドクルーザー(マレーシアの登録番号表付き)を徴用した。

チームが一晩のキャンプのため停車していた時、20人ほどの武装集団を乗せたマレーシアナンバーのピックアップが2台接近しつつあった。リーダー格のイバン族の男がチームに尋問を始めたが、警察や軍部のメンバーに恐れを抱いていないことは明らかだった。チームの目的と、没収した乗り物を利用していることを知るが早いか男は怒り出し、地元の仕事が無くなるではないかと責めた。そして手の者に乗り物を押収するようにと命じ、チームは乗り物を失って立ちつくした。が、事態は奇妙な変転をみせ、チームはランジャクにある準県の警察本部に自分たちを送り届けてくれるよう交渉し、その希望は受け入れられた。ランジャクに到着すると、一団は乗り物を返還することを拒否し、体勢を立て直した警察の手を逃れ国境を越えて逃げ去った。

チームに参加していたジャーナリストは、警察と軍に介入の意欲も能力もまったくないことに驚きを隠せなかった。彼の報告によれば、チームのうち防衛部隊のメンバーは、介入を行なわない、ということでイバン族のリーダーと合意したが、多分地元のコミュニティーとの更なる紛争を恐れたからだろう、とのことである。県の官吏が後になって彼に語ったのは、これは地元での事件であり、部外者が関わるべきでもなければ公にすることでもない、ということであった。カリ・カリバール(反違法伐木搬出合弁企業)の州のコーディネーターは、地元民は自国政府などよりも外国人(アペン)に対してのほうがずっと忠実で協力的になり得るということも知らないのか、と述べた。彼によれば、県警察の手に負えないとなって初めて事件を州警察に引き継ぐのだそうである。

カリ・カリバールのコーディネーターはおそらく何らかの「内部情報」を手にしていたのだろう。というのもそれから2ヶ月以内には、県警と国家警察はオペラシ・フータン・レスタリ(Operation Everlasting Forest 永続森

林作戦)に着手し、国境を超えた違法伐木搬出に関わっていた何人かのマレーシア人とインドネシア人(華人、イバン族、マレー人)を逮捕した。この作戦下にあっては既に切り出された材木を搬出することも禁止され、こういった交易に収入源を得ていた地元民に動揺を引き起こした。彼らは多数からなる代表団(約200名ほど)を県都のプトゥス・シバウに送り出し、禁令の撤廃を要求した。材木はコミュニティーの森(フータンアダット)から採れたものであり、インドネシアの市場は桁外れに遠くにある、と彼らは主張した。今日に至るまで、なんらの結論は出されておらず、人と物の国境を越えた行き来に沸いた国境の町はゴーストタウンとなっている。インドネシアの森林相M. S. カバンは、「地元コミュニティーは商業的な製材を許可するなんらの法律的根拠を持っていない。」と述べた(Kompas 2005b, 2005c; Media Indonesia 2005; Pontianak Post 2005a)。この言葉によって、おそらく国境地域の歴史における伐木搬出の局面に終止符が打たれた。


より広い視野から見た自警団とギャング団

以上の二つの例は、これらの地域が現在直面している資源問題、社会問題を語る上で理解されるべき国境地域における生活の変化をそれぞれの形で示している。

カリマンタンのイバン族は、民事、刑事にわたる事件をかなりの程度自治的に取り扱ことに慣れているため、自治を減じようとする試みに立ち向かうことにためらいはない。19世紀末にオランダ官僚は彼らをしてeen levendig en strijdlustig volk (活動的、好戦的人々) と評している。このような発言の意図する類型化には注意を払う必要があるが、過去一世紀半にわたって国境の両側にまたがって居住していたイバン族が持つ文化的なバイタリティーと大胆さをある意味で雄弁に語っている言葉であるとも言えよう。それらの特質は、イバン族が国家との間に作り上げてきた独自の関係によって育まれたのである。イバン族の居住する蘭領西ボルネオと英領サラワク間の境目一帯は、19世紀、18世紀初頭を通じ、植民地宗主国にとって最も連続的に国境地域の緊張関係を産み出してきたが、これは偶然のことではない 。というもの、イバン族を好きに封じ込めたり、鎮圧することはかなりの困難だったからである(Wadley 2001, 2004)。

公式な講和(1886年)の後ですらも、植民地政府は、イバン族を敵に回さぬようその扱いに十分注意した。例を挙げれば、国境の両側において、イバン族は他の現地人に比べ低く課税されていた。何故なら、サラワクにおいては、彼らは西ボルネオにおける植民地政府の遠征に参加することを義務付けられており、また、蘭領西ボルネオにおいては、サラワクにおけるそういった慣行に習った措置が取られたのだろう。 その上、オランダのシステム下においては、トレメンゴンやパティといった指名制のリーダーは、次第に自治性を強めていき、特に1940-50年代の政治的大混乱、大変動の時期においてはその傾向性が特に顕著であった。その上、カリマンタンのイバン族はサラワクと特に相性がよいのだが、このことはサラワク政府によっても助長された。1882年、2代目の英国人サラワク統治者であるチャールズ・ブルックは、カリマンタンのイバン族を捕らえて自らの統治下に置こうと提案したが成功しなかった。「これらのダヤク族たちが住み着いている国境地帯に隣接する土地の一部までが、サラワクの統治下へと変更がなされた。」 - このことはイバン族の歴史物語の中の記憶にとどめられている。というわけで、カリマンタンのイバン族が特別な場合において自らの利権を強く主張することは、危険なことであるかもしれないが、何も驚くべきことではない。1960-70年代に、国境地域における対破壊活動を目的とした軍備が増強された期間において、イバン族は散弾銃を手渡せというインドネシア軍の命令に従うことを拒否した。数百人の屈強な集団が儀礼用の衣服を纏い、トレメンゴンとパティフに伴われて陸軍司令部を訪れると、野豚やサルが荒らしまわる畑を守る兵士をもし陸軍が配置してくれるなら散弾銃を手渡す、と述べた。今日に至るまで、イバン族に統御されている三箇所の準県のみが、県下において、市民が自宅に土地の警察署への登録なしで散弾銃を所有してよい地区となっている。

こういった背景と、また、1998年のスハルト政権崩壊後に起こった政府の非中央集権化、警察、軍部の混乱という現実の下に置いてみれば、ウスナタが復讐目的で殺害されたことはより理解しやすいものになり、そこに様々な歴史的な連続性も感じることができる。文化的に強く意識されている自治は、慣習法は地元においては国法に先立ち、イバン族の力づくの追撃は完全に合法的なものであるという確信の中にとりわけ明らかである。イバン族の結集能力は今も残っており、19世紀に何百、何千と行なわれた首狩りの遠征に歴史的な類似が見出せる(Freeman 1960)。インドネシアの政治に起こった諸変化は、1988年以降イバン族の行動範囲を広げているが、ウスナタの事件に関わったイバン族は、歴史的に育まれてきた特性の恩恵にあずかることなしに働くことはできず、またそうしたいとも望

んでいない。ギャング行為の例に関しては、さらに二つの要素の影響力が働いている。まず第一に以下の点が指摘できる。国家全体において非中央集権化が進んでいるため、インドネシア全土にわたる地方政府は、現在ではかつてないほどの権力を手にしており、カプアス・フル県の官僚は、国境にまたがった伐木搬出を、中央政府から長く放置されてきた国境地域の経済を発展させるよい機会とみなしている。その上、中央、また県レベルの政府からの財政援助が劇的に減少した場合、県の官僚は自らの地位を守る準備をする必要に迫られるだろう。第二に、地元のイバン族の多く(県の官僚のうちのある者もまた同じだが)は、現在行なわれている伐木搬出の適法性に対する中央または県レベルの政府と見解を異にしており、「よそ者」の干渉、例えば上記したような政府の作戦行動は地方自治に対する違反であるととらえていることがあげられる。県警察、また地元の軍組織の消極性は、伐木搬出の利益に対して彼らが十分注意して反応しており、イバン族の行動力にごく健全に敬意を払っていることの証とも捉えられる。

1998年に「新秩序」政府が崩壊すると、華人系マレーシア人の材木を扱う企業家らは、伐木搬出の運営のため、長くて穴だらけの国境を横断するようになった。彼らは所得上の必要性のため、地元のコミュニティーと日常的に協力関係を保ち、県政府からは暗黙の上で認められた存在となっている。経済的、政治的に伝導性のある風潮と熱帯産の材木に対する世界的な需要に加え、道路網の改善(本来的には国家の治安上の理由から行なわれたのだが)によって国境越えが容易になると、そのような運営はより手軽に行なえるものとなった。地元コミュニティーに関する限り、国境域の森は伝統的に自分たちの管理する森であると考えており、そこから採れる木材は、地元において得られた商議の産物と彼らはみなしている。 事業を円滑に進めるため、材木商らは警察、軍部、国境地点の出入国管理局の職員などを含む、県、準県レベルの有力な官僚に賄賂を贈っているが、このことは国境域の地元民には広く知れ渡っている。

カプアス・フル県のバタン・ルパル準県においては、(地元ではトゥケイとして知られる)マレーシア人の企業家と地元のイバン族を巻き込んだこういった一連の動きは、周囲に広く影響を及ぼしている。文化的、経済的に長くサラワクと結び付き、中央、地方政府の双方から置き去りにされ続けてきた結果として、国境地域に在住するイバン族の多くは国家に対する参加意識が低い。マレー

シア人のトゥケイ (およびその雇い人であるマレーシア国籍のイバン族)はインドネシア政府の役人よりもイバン族の習慣や言語に通じており、イバン族はそういった自分たちに近い存在に与することに対して何のジレンマも感じていない。地元のイバン族らは、トゥケイおよび国境を挟んだきょうだい分と付き合うことに居心地のよさを感じている。また、カリマンタンのイバン族は賃金労働のために国境を越えることを長く行なってきたが、サラワクに住む仲間達はカリマンタンに同じように引き付けられてきたわけではない。伐木搬出をめぐる諸活動は分割されたイバン族が新たなつながりを育む機会をもたらし、国境を越えた民族関係の長い伝統をさらに強めた。国境にまたがった伐木搬出が本格的に開始された後、県や国家レベルの報道機関はそのことを遠いカプアス・フルでおこっている出来事として時折取り上げるだけであった。(e. g. Jakarta Post 2000, 2002, 2003; Pontianak Post 2003a, 2003b)が、後になって国境域での密輸の量が増加し、資源と国家の歳入に対する損失が無視すべからざる程度に至ると、メディアの注目が再びこの遠く離れた国境地域に集まった。 この話題はマレーシアによる西ボルネオの資源搾取として取り上げられ、「マレーシアは我々の果物を食い、インドネシアは樹液を飲み下す」(Suara Pembaruan 2003)、「カルバルの国境域におけるマレーシアによる『植民地化』はいつ終焉するのか?」(Suara Pembaruan 2004b)などといった挑発的な見出しが躍った。報道の語調が国家主義的な色彩を帯び、越境活動は明らかな犯罪とみなされるようになった。トゥケイとマレーシア人の労働者は銃で武装し、地元のコミュニティーを脅しつけるギャングとして扱われ、「マレーシアの華人ギャング」という呼び名をしばしば耳にすることとなった(Suara Pembaruan 2004a; Sinar Harapan 2004a, 2004c; Media Indonesia 2004)。政治的態度がこのように変化したため、国家、および州レベルの政治家は、県の官僚に迅速に措置をとるよう要求した。県政府はこれらの「マレーシア人ギャング」に対する処置を請け負うと断言したが、当初、違法な伐木搬出に対する取り締まりは殆んど行なわれず、不熱心な取り組みの結果逮捕されるのは「雑魚」ばかりであった。(Kompas 2003a. 2003b; Pontianak Post 2004)とりわけ、県の官僚たちは、国境を越えたつながりがよい収入源となっているため、あせって違法行為を止めようとすることはなかった。「ギャング」の活動は止むようには見えず、県の官僚と地元コミュニティーに支援を受けているようであっ

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