鄭和と東南アジアイスラム教
北京大学 孔遠志
volume 10


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七回に渡る西洋下り(1405-1433)の間、鄭和は海外においてイスラム教の伝播に参加したのだろうか?中国古代の書籍にはその方面の記述が見られないのである。しかし、それに反して、東南アジアにおいては、鄭和が現地のイスラム教化を促進したという記述や伝説が少なくない。これらの記述や伝説は史実と符号しないのだろうか?この問いは探求する価値がある。なぜなら、鄭和の西洋下りの全容を理解する手助けとなるからである。とりわけ、中国と東南アジア文化交流の一部である、15世紀の東南アジアイスラム教の発展過程における彼の役割について理解できるだろう。以下、海外の研究者たちが鄭和の東南アジアにおけるイスラム教伝播に関する記述を紹介し、筆者の考えを示す。
1.15世紀以前の東南アジアイスラム教
さらなる鄭和の東南アジアにおけるイスラム教布教活動の理解と考証には、やはりまず、現地のイスラム教の背景について簡単に紹介しておく必要がある。イスラム教が東南アジアに入ってきた時期や場所については、ニュージーランドのB·W·安达雅や日本の石井米雄が「スマトラ島北部部地域がインドとイスラム教世界の心臓部に最も近く、イスラム教はスマトラ島北部に最初に滩头を作った。」と記している。
インドネシア百科では、13世紀下半叶にイスラム教がスマトラ島北部に伝えられた、と記載しており、インド西部のグジャラートを経由して、ペルシャ商人が媒介したとされる。これは、1297年に崩御したサムドゥラ・パサイ第一国王の墓碑に、イスラム教暦696年とイスラム教名「Sultan Malik As Salih」等が記されていたためである。また、墓碑はグジャラートの坎贝のものであった。これは、1292年或いは1297年にイスラム教がグジャラートからサムドゥラ、パサイへ入ったことを示している。大多数の研究者がこれに同意している。
その他では、一部の学者が7.8世紀にアラブ商人がスマトラ島北部に入り、周辺での交易を通して、イスラム教が伝播されたとすしている。インドネシアイスラム教信徒では、インドネシアのイスラム教は、中国から最も早くやってきたとする者もいる。たとえば、ナフダトゥル・ウラマー(印尼伊斯兰教士联合会)総裁アブドゥルラフマン・ワヒド(1999年10月-2001年7月インドネシア大統領)は、イスラム教は中国の回教徒からインドネシア諸島に入ったとしている。インドネシアの著名なイスラム教学者Dr.Nurcholish Madjidは、インドネシアイスラム教には、インド大陸経由と、アラブ南部経由という二つの観点があることを紹介sし、さらに学術界には第三の観点があることを紹介している。それは、すなわちインドネシアイスラム教が中国大陸を源とするという説である。中国の雲南から伝わったという説もある。さらに、イスラム教はチャンパ経由の東ルート、インド経由の西ルートがあるという学者もいる。上述の、インドネシア諸島におけるイスラム教はどこから伝わったかという、いくつかの観点について、本文では検討せず、別に機会におまかせしたい。
記述によると、13世紀末、スマトラ島サムドゥラ、パサイに最初のイスラム教王国が建設され、それがイスラム教の中心となったとしている。1292年、イタリアの旅行家マルコ・ポーロが中国からイタリアへ戻る途中、スマトラ島北部に寄港し、多くの民がイスラム教に帰依している様子を見ている。彼は、Perlak国について、「回教徒が常にこの国を往来しており、国の民を感化し、マホメットの教えに帰依させており、民が城内へ入ることを制限している。」と話している。
歴史の上では、7-8席世紀はアラブやペルシャ、そしてインドの回教徒商人がスマトラ島のマラッカ海峡側に到達していた。たとえば、早くは、674年にはスマトラ島西海阿姆に、アラブ人(回教徒)の墓碑があった。これは、东爪哇锦石付近の村で発見され、1082年に死去した女性回教徒Fatimah binti Maimum bin Hibat Allahの墓碑である。この墓碑は、元々どこかから持ち出されたものと考える人がいる。「例え年代が真実の碑文であったとしても、1100年頃にアラブ人かペルシャ人がここへ来て置いたにすぎない。それが長い期間を経て、イスラム教がこの地域に伝播した証拠となったのである」と。
この事実は、13世紀以前にインドネシアに回教徒がいたことをあらわしている。これ以前に、インドネシアに回教徒コミュニティやイスラム教王国があったかどうかは、未だ歴史の記述の中から見つけることはできていない。インドネシアの最初のイスラム教王国(サムドゥラ・パサイ王国)と最初の回教徒の拠点(現在の北亚齐地区的Lhokseumawe付近)は、全て13世紀下半叶に出現している。しかし、これが当時のイスラム教がスマトラ島全域に伝播していたとは言えない。マルコ・ポーロは『马可波罗行记』において、13世紀末、须文达那付近の淡洋、南巫里等では、「居民は偶像教徒(非回教徒、イスラム教は偶像崇拝をしないため:引用者)である。」と記している。
そのため、13世紀下半叶のイスラム教のインドネシア伝播はまた初めの地固めの段階であったと言える。イスラム教がスマトラ島から入り、ジャワ島、カリマンタン諸島のイスラム教化に至るまでにはこれから数世紀の時間を要したのである。
マレー半島においては、イスラム教に関する最も早い記録は、丁加奴で発見された石碑の碑文である。この碑文に書かれている年代については既に損壊しており、はっきりしない。『剑桥东南亚史』では、この碑文は、「王室が地方官僚に発令した命令の記録で、文中には彼らがイスラム教とアラーの使者の教えを擁護する令が記されている。イスラム教暦702年と789年(西暦1303年と1387年)とある」としている。イギリスの学者霍尔は、のこの石碑はイスラム教区と「戦区」の間の境界を示す碑であり、碑文が現地民衆たちが未だ新しい宗教(イスラム教を指す:引用者)を受け入れていないことを示している、と指摘した。イブン=バットゥータは1345-1346年の間、マレー半島を統治していたのは一人の異教徒であったと証明している。霍尔の結論は、「実際はイスラム経が15世紀以前にマレー半島に伝播したということを証明するに足りる材料はほとんどない」としている。
インドシナ半島のチャンパでは、11世紀初めの二名の回教徒の墓がある。凡·莱尔も、チャンパでアラブ人の1039年の墓碑を発見したと記している。『剑桥东南亚史』では、東南アジアのイスラム教について、「13世紀初頭から、やっと現地人がイスラム教を受け入れたという明確な証拠がある。当時、イスラム教の影響は沿海の貿易ルート上の分散された港口に限られていた。」と記している。
13世紀以前、東南アジアには上述の回教徒の墓だけではなく、中国の回教徒もいたのである。これは歴史的根拠がある。例えば、9世紀下半叶に黄巣軍が広州を占領後、広州一帯の華人回教徒や多くのアラブ商人、ペルシャ商人が三々五々、シュリービィジャヤ王国のパレンバンへと移ってきた。インドネシアの学者も黄巣軍が中国南部の沿海地域の多くの回教徒が南洋へと逃げていったとしている。西暦943年アラブ人Masudiがスマトラ島を通過した際、多くの中国人がその島で農耕に従事しているのを見たという。彼らは「黄巣の乱」から逃げてきたのである。11世紀以降、インドのグジャラートのイスラム商人はジャワ島のどこかの港から商業を通してイスラム教を広めていった。結果として、ジャワ人だけではなく、その地にいた中国商人もイスラム教に帰依するようになっていったのである。至元18年(1281年)、中国は二名の回教徒の家臣をスマトラ島の木剌由国(Melayu、現在のジャンビ)に派遣した。この両名はSulaimanとShamsuddinに分けられた。
鄭和がジャワに入る前は、現地には華人回教徒が既にいた。これは元代の南洋への大量移民が環境している。『异域志』では、元代において、泉州とジャワ島の杜板(新村)の間には、毎月定期船が運航していたと記している。中国人がジャワに流れついたのである。汪大渊の『岛夷志略』では、13世紀末に元兵がジャワ島に侵出し、一部の兵が島に残ったとされる。いわゆる「唐人与番人丛杂而居之」である。元代は、まさにイスラム教の中国における伝播の最盛期であった。元兵の中にはイスラム教徒が少なくない。15世紀马欢撰の『瀛涯胜览』の「ジャワ」の項目には以下の記述がある。「满者伯夷(……)国有三等人(……)一等唐人,皆是广东漳泉等处人窜居此地(……)多有从回回教门受戒持者。」
正に研究者たちが指摘するように、15世紀以前にイスラム教は東南アジア地域に伝わっていたが、伝播の速度は緩やかなものであった。これは以下の原因に関係している。一つは、インドから来たバラモン教と仏教が東南アジアにおいて長期的で根深い影響を与えていたことである。二つ目は、東南アジアに先に出現した、7世紀の仏教のシュリーヴィジャヤ王国、8世紀のヒンズー教の满者伯夷王国、そして、14世紀の仏教のアユタヤ王朝が、イスラム教の伝播を障壁となっていたのである。
2.鄭和と東南アジアイスラム教の伝播
研究者の中には、鄭和と東南アジアイスラム教の関係を、「鄭和の西洋下りは東西方の海上を通っていたため、東南アジアとイスラム世界の接触を拡大し、イスラム教の伝播を加速させた」と指摘することがある。同時に明朝の使者である鄭和の「マラッカ王国の独立支持が、イスラム教伝播の真の原動力となったとしている。このようなマクロな分析は非常に重要であり、また史実に符号している。
しかし、海外の人々が鄭和の海外におけるイスラム教布教について論じる際、最も多い論述が、鄭和がインドネシア諸島、特にジャワ島で活動した、というものである。彼らとは、インドネシアの姆加、茫雅拉查·翁冈·巴林桐安、乌斯曼·埃芬第、阿古斯·苏佐第、罗索、哈多诺·加斯玛第、维约诺、赫鲁·黑里斯第约诺,や、インドネシア華人の李天佑、许天堂、シンガポールの李炯才、陈育崧、それに欧米の韦尔莫特和马礼逊等である。その中でも最も具体的な論述をしているのが、茫雅拉查·翁冈·巴林桐安著『Tuanku Rao』である。「Tuanku」は、「私の先生」を意味し、イスラム教の長老への尊称である。「Rao」は、19世紀中葉のスマトラ島中部のあるイスラム教伝道者の名前である。本書は、彼の著作の記念として書かれ、31編と付録『ジャワ島のイスラム教伝播におけるイスラム教哈乃斐学派の華人の作用(1411-1564)』で構成されており、記述は多岐に渡る。付録の内容は、マレー語を使用し、スマランと、チルボン関係の編年史が書かれており、『マレー編年史』と呼ぶ研究者もいる。本書と付録は、当時のスマランのスマラン公庙より運び出された資料を取材しており、『スマラン編年史』あるいは、『マレー語「スマラン紀年」と「チルボン紀年」』と呼ぶ研究者もいる。この叙述は非常に的を得ており、本文では、以下、『編年史』と略称する。
上述の研究者達は、鄭和の東南アジア諸島におけるイスラム教活動関係は大きくわけて、以下の二つがあると論じている。
一つは、東南アジアの清真寺での祈祷と、ジャワ島各地での清真寺の建設である。
茫雅拉查·翁冈·巴林桐安は、「1413年、明朝の船団がスマランに一ヶ月程逗留し、船舶の修理をした。海軍指令哈吉三宝公、哈吉马欢、哈吉费信は、スマランの華人清真寺で頻繁に祈祷していた」と記している。鄭和の努力もあり、「1411-1416年、マレー半島、ジャワ島、及びフィリピン諸島等では相次いで哈乃斐派の華人イスラム教徒コミュニティができた。ジャワ島のジャカルタのAntjol,TjirebonのSembung、Lasem、Tuban、Gersik、Djoratan、ModjokertoのTjangki等で清真寺が建設された。」としている。
『端古劳』の解釈によれば、三宝太監(鄭和)の死去により、海洋事業が放棄され始め、ジャワ島の華人のイスラム教コミュニティにおいては、現地社会との同化が進むことはなく、「三宝太監が建立したイスラム教の教堂は、三宝太監の祭祀を扱う廟へと変化した」のである。赫鲁·黑里斯第约诺は、現地の伝説として、鄭和がスマランにいた時に住んでいた石洞が、当時のイスラム教布教の中心地と呼ばれていたという。1411年、鄭和がスマランで住んでいた石洞付近には小さな清真寺が建てられた。上述の、1413年、鄭和、馬歓、費信が、スマランの華人清真寺で頻繁に祈祷していたという記述と関連づければ、もしこの記述が事実とすれば、鄭和は少なくとも1411年にはスマランを訪れていたということになる。
われわれは、清真寺とは、イスラム教徒がイスラム教の儀式やイスラム教の知識を広める場所であることを知っている。鄭和の努力により、ジャワ島には多くの新しい清真寺が建立され、それが現地のイスラム教伝播の重要な役割を担っていたのである。
二つ目は、東南アジアにおける華人イスラム教コミュニティの建設である。
巴林桐安は、さらに、1470年に中国明朝の船団が長きにわたり福建の非イスラム教徒華人が管理していた巣穴(Kukang、現在のパレンバン)を奪取し、当時の海賊の頭である陈祖义を逮捕し、鎖でつないだ後、北京(南京を示す:引用者)に戻したと記している。民衆の前で陈祖义の斬首をし、南洋各地の福建籍華人に警告した。これにより、Kukangには、インドネシア諸島初の華人哈乃斐派子イスラム教コミュニティができたのである。同年、カリマンタン島のサンバスにも華人イスラム教コミュニティができた。1416年には、鄭和がスマトラ島北西部のバダンガディスの河口に華人イスラム教コミュニティができた。
斯拉默特穆里亚纳の『インドネシアヒンズー・ジャワ王国の衰退とイスラム王国の興起』では、鄭和が先にスマトラのパレンバンにおり、後にカリマンタン島西部のサンバスとジャワ島沿海等に華人イスラム教コミュニティを建設した。これにより、哈乃斐学派の教義や義務が中国語となり、イスラム教が伝播していったのである。
シンガポールの研究者李炯才は、「1430年、三宝太監は既にジャワ島におけるイスラム教宣揚の基礎を作り上げることに成功し、Tuban、Tjirebon、Kukang、Gersikにおいて華人イスラム教コミュニティを建設した」と記している。ほかにも、シンガポールの研究者陈育崧も、「鄭和の尽力により、この時期の中国移民の多くはイスラム教を進行し、Kukang、Gersikにおいて華人イスラム教コミュニティを建設し、現地住民へのイスラム教布教へとつながっていった」と指摘している。
鄭和は海外におけるイスラム教徒に対し、現地華人の中から指導者を委任、もしくは準備した。この指導者達がイスラム教伝播の重要な役割を担ったのである。
巴林桐安の『編年史』では、1419年に鄭和がチャンパ(現在のベトナム中南部)で、雲南籍の彭德庆(Bong Tak Keng)を、南洋各海岸に分布する哈乃斐派華人コミュニティの指導者とした。同年、彭德庆は、颜英祖(Gan Eng Tju)にフィリピンのマニラ華人の管理を委託し、1423年、颜英祖は祖父に、マニラからジャワ島の主要な港の一つであるTubanまでを調査し、スマトラ島のKukangとカリマンタン島のサンバスに華人イスラム教コミュニティを建設した。鄭和は1434年(1433年と思われる:引用者)に死去し、その後は颜英祖が南洋華人の推進力の要のなったのである。1443年に彼は、钻龙(Swan Liong,スマランの火薬工場主管
),にKukangの華人イスラム教コミュニティの指導者を委託している。
1445年、彭德庆の孫であり、颜英祖の娘婿である彭瑞和(Bong Swee Hoo,1401-1481)、は、Kukangに派遣され、钻龙の活動を手伝っていた。は、もともとインドネシア名の拉登·拉赫玛(Raden Rachmat)、または苏南·阿姆贝尔(Sunan Ngampel)と名乗っていた。Sunanとは、ジャワ島でのイスラム教布教に卓越した功績を残した賢人を指す。Ngampeは、ジャワ・イスラム教九大賢人の一人である。1451-1477年の間、彼はジャワ島北岸の阿姆贝尔とマドゥラ島にジャワ人のためのイスラム教コミュニティを作った。
ここで特に指摘したいことは、もし鄭和が中国語で華人のイスラム教布教を行っていたとしたら、中国人の血統を有しならもジャワ島で生まれ育った彭瑞和は、現地語で主流部族に対しイスラム教を広めていたということである。この時期、彼はジャワ島北岸、マドゥラ島、スマトラ島パレンバン、カリマンタン島サンバスの華人イスラム教コミュニティを率いていた。斯拉默特穆里亚纳は、1451年がジャワ島Bangilの華人イスラム教コミュニティを離れ、ジャワ島のマス川流域でジャワ人に対しイスラム教を広めていた。彼の息子である波囊(Bonang, 1465-1525)は、中国語ができず、完全なジャワ語を使って、ジャワ人の中に入り、イスラム教化を展開していったのである。オランダの研究者施福泉も、16世紀までにジャワ島北岸の華人の中には現地のジャワ語が使えるイスラム教徒が多数いたと記している。これに関連して、15世紀初めには、ジャワ島の原住民は「
崇信鬼教」で、鄭和や他の華人イスラム教徒たちの布教は重要な意義を持つのである。
满者伯夷王国国王と華族の宮廷女官の息子で、 钻龙の養子真猛(Djin Bun/Orang Kuat,1455-1518)は、別名を拉登巴达(Raden Patah)と言う。彼は、仏教崇拝の国である满者伯夷王朝を覆し、淡目にジャワ島初のイスラム王国を建設した。この国は、ジャワ島及びカリマンタン諸島のイスラム教化の進呈の中で、重要な役割を持った。1474年、真猛がスマラン逗留中、もともと清真寺であった場所に鄭和を記念する像が置いてあるのを見つけた。清真寺は三宝公庙へと変わっていたのである(なぜなら、清真寺内には偶像を置くことができないからである)。敬虔なイスラム教徒である真猛はこれに非常に心を痛め、神に対し、近い将来新しい清真寺を作りことを約束し、救いを求めたのである。1487年、彼はついに有言実行し、スマランに壮大な清真寺を建設したのである(現在のスムランの旧広場付近)。
14-16世紀のジャワ島におけるイスラム教伝播は、「九賢(Wali Songo)の名を無視することはできない。なぜなら、彼らはジャワの多くの伝道師の中の傑出した者たちだからである。ジャワ人、とりわけイスラム教徒にとっては、全員が尊敬すべき人物なのである。」
鄭和とジャワ・イスラム教九賢との関係は何なのだろうか?
九賢の中でも最重要人物が、賢人阿姆贝尔(Sunan Ngampel)、すなわち彭瑞和である。彼の二人の息子波囊(Sunan Bonang)、达拉查(Sunan Drajat)も賢人である。賢人吉里は、かつて、阿姆贝尔の古コーラン経学堂で学んだことがあり、また、彭瑞和の弟子でもある。
インドネシアの研究者は、鄭和とイスラム教伝播の功績について論じる際、よく賢人吉里(Sunan Giri)、すなわち拉登·巴古(Raden Paku)へと話が及ぶ。もともと、1407年に鄭和の船団がイスラム教徒施进卿の協力の下、スマトラ島パレンバンの海賊の頭陈祖义を討ち取ったことがある。これにより、明の永楽帝は施进卿に「宣慰使」の官職を与えた。1421年に施进卿が死去した後は、その息子施济孙と二人の姉が位を争った。鄭和は6回目(1421-1422)、7回目(1431-1433)の西洋下りの間の休息期間で、1424年1-8月にパレンバンに赴き、この問題を解決した。人々が“施大娘子俾那智”(Nyai Gede Pinatih)と呼ぶ、施进卿の長女が弟妹たちの締め出しにあい、パレンバンを去り、ジャワへ向かった。彼女は、東ジャワ島でのイスラム教布教で有名となり、後に为拉登·巴古の養母となった。拉登·巴古は東ジャワ島の一帯で、イスラム教布教に尽力していた。满者伯夷王国が布教活動の鎮圧に派兵した際、懸命な拉登·巴古率いる群衆は、满者伯夷の進攻を食い止めたのでる。『インドネシア大百科全集』によると、拉登·巴古の死後、埋葬されたGersik付近の山々は「賢人吉里」とし、人々の崇拝を受けている。もちろん施进卿、施大娘子俾那智とその養子拉登·巴古がイスラム教徒であることは言うまでもない。彼らは1407年に鄭和がパレンバンに建設した、インドネシア初のイスラム教徒コミュニティの直接的、間接的影響を受けていたのである。
賢人卡里查加(Sunan Kalijaga)は、彭瑞の義弟(颜英祖の子)であり、彭瑞とその息子波囊の弟子である。賢人穆里亚(Sunan Muria)は、波囊の息子であり、彭瑞の孫である。九賢の彭瑞和は、他の5賢人と血縁あるいはイスラム教教学等で直接、あるいは間接的な関係を有している。オランダ華人研究者は「南洋华人」(第六代华人国家)において、ジャワ九賢中、7名が中国の血統であると考えている。
仏教崇拝の满者伯夷王朝を覆すことに成功した真猛は、賢人ではないが、彼は、賢人吉里(即拉登·巴古)の娘と結婚しており、又、賢人波囊の弟子である。
九賢人の中の鍵となる彭瑞和(付録中の訳者説明)、彼は彭德庆の孫である。は1413年にチャンパで、鄭和によって、南洋(東南アジア)華人イスラム教コミュニティの指導者を任命された。重要なのは、15世紀に30年に渡り行われた鄭和のチャンパ、フィリピン、マレー半島、インドネシア諸島における華人イスラム教コミュニティ建設は、15,16世紀のジャワ・イスラム教九賢の誕生と宣教において非常に良い条件を作り出したということである。現地の華人イスラム教指導者たちはイスラム教伝播を、一代ごとに浸透させていったのである。彭德庆と颜英祖がチャンパとフィリピンの華人イスラム教コミュニティの指導者となったことに関連して、上述の華人イスラム教指導者の役割は、遠くジャワ島やスマトラ島に及び、インドネシア諸島以外の東南アジアの地域へと拡大していったのである。
鄭和の東南アジア各地におけるイスラム教布教の功績は現地の研究者たちの高い評価を得ている。
インドネシアの著名なイスラム教組織指導者哈姆加は、かつて、「インドネシアとマレーシアのイスラム教の発展は、中国の一人のイスラム教徒と密接な関係にある。このイスラム教徒は鄭和将軍である」と記している。哈姆加はさらに文中で、明の永楽帝が鄭和を選び出し、一生をとして、西洋下りを果たしたという重大な任務の主たる目的は、無論イスラム教の地位を強固なものにするというものではなかった。しかし、永楽帝の英断は明朝の勢力をマレー諸島(マレー民族と関係のあるインドネシア諸島及びマレー半島等:引用者)に拡大するばかりではなく、当該地域のイスラム教政権を強固なものにしたのである。中国がイスラム教国家を認めたものとし、暹罗と满者伯夷は再び彼らを攻めることはないだろう。スマトラ島北部のバリ王国滅亡後、(当該地域のイスラム教の中心となる)マラッカに取って変わったのである。最後に、哈姆加は、1960年のパキスタンの法特美教授がマレーシアテレビ局で行ったスピーチを引用し、「東南アジア・イスラム教の発展と鄭和将軍は関係がある」と、した。
1985年9月14日、インドネシアの週刊誌「时代」は、もし他に同じような敬虔なイスラム教徒がいたら、鄭和はジャワ島で訪問した各地全てにイスラム教を広めただろう、と記した。さらに、鄭和と類似した布教活動は、インドネシアやブルネイだけではなく、マラッカ王国等も含めた範囲に広がっていた、と記している。
イギリスの宣教師Robert Morrison,1782-1843は、「衆島(南洋諸島を示す:引用者注)の中で、象牙の値段が最も高く、古名を小ジャワとし、(…)、明の永楽3年、あるイスラム教徒(鄭和を指す:引用者注)が大軍を率いて先住民を征服した。偶像を廃止し、アラーの神へ帰依させた。」と記した。これは15世紀初頭の鄭和一行が確実にジャワ島にてイスラム教布教を行っていたということである。しかしMorrisonは、鄭和が武力をもって現地住民を強迫し、彼らの偶像を破壊し、イスラム教に改宗させたとしており、これは史実と合致するものではない。今なお、鄭和のジャワ島における強行的なイスラム教布教に関する文章や書籍は発見されていない。
華僑の王觉生は、「南洋のオランダ領セレブス島の望加锡(インドネシアのスラウェジ島の乌戎潘当に当たる:引用者)北部に外城と呼ばれる、明代に鄭和が巡遊した地があり、その酋長を冊封し、王とした。仏教を信仰していたが、後にイスラム教を崇拝した」と記している。
サムランの三宝廟には大太鼓があり、鼓膜には「默认兰音」の文字が書かれている。これは「コーランの音を黙認する(默认古兰经之音)」という意味が含まれていると考えるインドネシアの研究者がいる。1993年、筆者が三宝廟を訪れた際、この太鼓を目にすることはできなかったが、廟内の額の中に「默认兰音」の四文字を見ることができた。同行したインドネシアの友人は、この建築物はもともと鄭和が自ら建立した清真寺で、後に現地で信仰されている「三教(仏教、道教、儒教)」の華人が三宝病にしたが、華人のイスラム教徒はこの額を作り、人々が鄭和が敬虔なイスラム教徒であったこと、彼が一貫してコーランを褒め称えていたことを忘れないようにした、と話していた。インドネシアの民間にはいまだ鄭和のジャワ訪問時のイスラム教のラマダンの話が受け継がれているのである。
この他、海外の研究者の中には、鄭和の船団が来る前に、もう一人の使いである王景弘が、ジャワ島でイスラム教を布教していた状況について論じる人もいる。如阿孟·布迪曼等は、鄭和がジャワ島北岸を航行中、舵手の王景弘が突然病にかかり、鄭和は、彼の治療のために船隊にスマラン上陸を命じた。10日後、鄭和率いる船隊は遠洋航行を再開し、まだ病の癒えない王景弘他10名を残した。彼の病は癒えたが、この場所をいたく気に入り、鄭和の船隊を追うことはしなかった。而して現地の農民や農耕や商売に従事していた華僑に教えを説き、イスラム教を広めたのである。後に、彼はスマランに定住し、この世を去った(享年78歳)。現地の民衆は遺体をイスラム教の儀式にのっとり荼毘にふし、「三宝大人の船員であり、イスラム教の長老」と尊敬をこめて呼んでいた。スマランには、「王景弘が経験なイスラム教徒」と伝えられているのである。
3.4.省略
5.まとめ
鄭和の東南アジアにおけるイスラム教布教に関して、中国の歴史書においては言及されていない。その主たる原因は、明廷が鄭和に西洋下りの使命を与えていたからである。しかし、海外にはこの方面の記述や伝説が少なくない。とくに重要なのが、(インドネシアの)茫雅拉查·翁冈·巴林桐安の『端古劳』(付録の『編年史』も含む)である。『編年史』の論拠には証拠が足りないものがあるが、貴重な手がかりを十分すぎるほど提供してくれている。例えば、1413年の鄭和、馬歓、費信らがスマランの華人清真寺で祈りをあげていたこと、鄭和の努力によって東南アジア各地に建設した華人イスラム教徒コミュニティ、鄭和が華人イスラム教徒(特に雲南籍の華人イスラム教徒)ネットワークの助けを借りて、東南アジアでイスラム教を広めたことがある。また、もともと東南アジア華人のイスラム教徒が属していたスンニ派の中の哈乃斐法学派が、鄭和死去後、とりわけ1450年から75年にかけて、哈乃斐派の華人イスラム教徒コミュニティが衰退し、一部が現地の土着のイスラム教に一致するように、スンニ派の沙斐仪教法学派へと転じた。また、もともと中国語による布教だったのが、ジャワ人イスラム教徒によってジャワ語によって布教するようになった、等がある。これに対して、多くのイスラム教研究者や教授が重視しており、これとジャワの古代伝記に図らずも多数の一致があったことを発見している。
仮に、イスラム教徒の家系出身の鄭和が国内でさまざまなイスラム教布教活動に従事していたならば、彼は海外での明廷の使命を果たすだけではなく、イスラム教の布教が完全に可能だったであろう。鄭和の西洋下りは、東南アジア地域の仏教が占拠していた地位をイスラム教へと渡していったことに価値がある。鄭和と彼の薫陶を受けた華人イスラム教徒は東南アジア・イスラム教の布教において重要な意義を持っているのである。イスラム教は商業活動を伴い、平和的な方法で東南アジアに伝えられており、それが商業経済の発展の促進へともつながったのである。
確かに、鄭和が海外でイスラム教を広めなければ、彼を偉大な航海家と平和友好の使者の地位を得ることはできなかったであろう。鄭和の東南アジアにおけるイスラム教布教研究の課題は、鄭和西洋下りの全面的状況の理解、とりわけ15世紀東南アジアのイスラム教発展の過程における役割にある。これも、中国と東南アジアの文化交流の一部分を成すものである。国内外の研究者たちがさらに協力し、この問題について考証と研究を重ねていくことを提案したい。それによってこの重要な歴史の謎が解けるのである。
Kyoto Review of Southeast Asia Issue 10 (August 2008)
Kyoto Review of Southeast Asia
Issue 10 (August 2008)
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